『水曜の朝、午前3時』という、蓮見圭一氏による小説がある。
わたしは恋愛小説というものを毛嫌いしてきたが
いつだったか誰かが貸してくれて、期待せずに読んだが期待を上回った。
それで若い仲間数人に贈って、読んでみろと勧めたことがあった。
だがこの記事は、その話ではないし、恋愛の話でもない。
40歳になった頃の、ある日曜の朝のことである。
朝寝を決め込む妻をおいて、わたしは自宅近くの喫茶店に入った。
当時わたしは、心に重いものを引きずっていた。
天職に巡り合わずに転職(シャレではないが)を繰り返す自分に
嫌気がさしていたのだ。
せっかく雇ってもらってもすぐに仕事を覚え、覚えてしまうと他に目が移る。
転職先が決まり、不相応にも歓送会で見送ってもらうことも幾度かあった。
そんなことが続いて、何のために自分は生まれてきたのかと
心の底で自問自答していたのだ。
わたしは信仰心が厚いわけでも、霊感が働くタイプでもないが
これまでの生涯に天啓が降ったのではと思うできごとが
ただ一度だけあった。
人は、素晴らしい世界観をもって死ぬために生まれるのだと
コーヒーの香り漂うなか、前ぶれもなく答えが降ってきた。
それは、こういうことだ。
死を待つ2人の人間がいて、1人は「この世界に生まれてよかった」といい
もう1人は「こんな世界に生まれるんじゃなかった」という。
2人がいう「世界」は、要するに自分が築いてきた「世界観」なのだ。
どちらの世界で死を迎えるかは、運命のイタズラなどではなく、当人しだいなのだ。
転職を繰り返そうとも、その取り組みのなかで自分なりの世界観を築くのなら
それは道をはずすことではないと、そのとき確信したのだった。
以来30年がたつが、誰にもこの話をしたことがない。
転職の多かったことを正当化しているだけだろうと揶揄されると
たぶんわたしは、苦笑するしかないだろう。
いや、そうじゃなくて
ジャングルの中でも方角を見失わないコンパスなんだと
喉まで出かかっても、いわずにとどめてきた。
こうしてここに書きはしたが
うまく伝えられたかどうか、いっこうに自信がない。