わが家のテーブルは、壁沿いに立つ書棚と向き合っている。
独り暮らしのわたしは、食事のたびそこに居並ぶ本の背表紙を
見るともなく眺めることになる。
引っ越しのたびに思い切りよく本も捨ててきたので
70歳となってそこにある本の面々は、ある意味で選ばれた者たちだといえる。
それらは、過ぎ去りし日の好奇心の燃えカスではあるが
眺めては酒肴の一品に加えて楽しんでいる。
配置や順序に気を配らないゆえ、古今和歌集のとなりに漫画「ガキデカ」が立ち
「遠隔透視部隊の真実」の横に写真集「三島由紀夫の家」があったりする。
文学青年ではなかったので小説は少なく、あっても文庫本にまぎれこんで
老眼の目に文庫本のタイトルの字は小さくて読めない。
さて、そうした中の1冊に「原理講論」がある。
発行者は、世界基督教統一神霊協会(のちの統一教会)であり
その本はいわば教典に値するものだろうかと思う。
わたしが大学1年生のとき、京都市内のあちこちにポスターが貼られ
「費用無料のアメリカ研修」がいわばニンジンとしてぶら下げられていた。
その説明会にわたしは顔を出し、2泊3日の研修への参加を申し込んだ。
数日後、わたしを含め30名ほどの若者がマイクロバスに同乗し
兵庫県だったと思うが、どこか山中の研修施設に降り立った。
若者の集団は、マジメ派とフマジメ派に二分され
わたしはフマジメ派、つまり研修の中身などどうでもよく
ただ単に、タダでアメリカに行こうと考えるグループの1人だった。
施設内は禁煙だったので、休憩時間のたびに数名が寄って
木の下で煙草を吸うのだが、もうそれだけでフマジメ派は意を通じ合わせた。
それは主催者もお見通しで、彼らの目はマジメ派のグループにだけ注がれた。
自分が何をするためにここにいるのか、フマジメ派と主催者は知っていたが
マジメ派はわからずに、深夜まで個別指導に呼び出されたりしていた。
そんなことも、いまはもう好奇心の燃えカスとなってしまった。
急に結論じみるが、日に一度でも書棚を眺める時間が貴重だとわたしは思う。
なぜなら自分の読書人生を目の当たりに眺望できるからで
古今和歌集をほったらかして「ガキデカ」を読み返す自分なら
生涯大業を為すに至らずとも、所詮はその器だったと
笑って死ねるにちがいないと、思うからである。