英文法や世界史や因数分解って、人生でなんの役に立つの?
ありがちな質問が、いまも世界のどこかで囁かれているのだろう。
その質問に加担するわけではないが、多くの教師が教壇に立ち
説いてくれた教科書の内容は、わたしの場合はおぼろげである。
印象に残っているのは授業の場面ではなく
教師がその人間性をポロリと露出した瞬間のことばかりなのだ。
小学校4年生のとき、担任はS先生、女性教師だった。
イジメが社会問題化するずっと前の時代だが
「垢つき」と呼ばれていじめられている女生徒がいた。
垢がついていて汚い、の意味だが、まったく根拠のない中傷だった。
わたしはイジメ勢力の機嫌をとったわけではないが
同調するフシがないでもなく、そのことをいまだに深く恥じている。
S先生が聞き及んで、クラス全員を前に質問した。
「日の出のことを暁(あかつき)というけど、その意味ですか?」
数人がうつむいて首を横に振った。
「先生はそれを許しません」S先生は激高するでなく
もちろん手を上げることもせず、静かにそうおっしゃった。
中学校2年生のとき、闘病のすえに母が亡くなった。
このときのことをわたしはエッセ「中2の夏」に書いた。
2学期が始まって、なにかの折りに職員室をのぞいたとき
「おい、中野」と、体育科のB先生に名を呼ばれ
その声は職員室全体に渡った。
「おまえ、お母さんを亡くしたのに陽気さを失わない、尊敬すると
女子生徒が言ってるぞ」
たしかにそのころ、わたしは強がりだけで毎日を生きていた。
ヘラヘラ笑いを浮かべて、そこから退散するしかなかったが
B先生の声を忘れたことはない。
良い印象の例を2つあげた。
反面、あの言動はどうかと、印象よろしくない教師もいる。
結局のところ、教師は聖職か、否か。
すべての教師が聖人ではないが、その職業は聖職であり得ると
わたしはそう思っている。