……一年生の国語の教科書の最初のページを広げたときに、われわれの時代は「咲いた。咲いた。さくらが咲いた」とか、「はな。はと。豆」でした。ぼくなら、その教科書の最初のページに、ちょうちょが飛んでいる絵を描いて、
「ちょうちょが飛んでいます。楽しそうですね」
つぎの見開きに、こんどはクモの巣に引っかかったちょうちょを描いて、
「ちょうちょが死んでいます。かわいそうですね」
こういうところからはじめたいと思います。
それは、子供たちがじっさいに見ているものです。死んでいる虫も、生きている虫も見ているのです。そこで、なぜ死んだのだろう、クモの巣に引っかかったからだ。クモが食べてしまった。なんでクモが食べるのかというようなところからいろいろな疑問がわいてくる、いろいろな質問が出てくると思うのです。……『ぼくのマンガ人生』(手塚治虫/岩波新書)より抜粋
【コメント】
いま、小学校1年の教科書に一家言ある大人が、どれだけいるでしょう? 1万人にひとり? 「本当の勉強は社会に出てから!」の声を否定はしませんが、それは単に自己を美化するがための後付け理論にも聞こえます。手塚さんは、けっして子どもを過小評価しなかったのだと思います。もしすべての大人に、小学校1年の教科書のアイデアを考えて提出すべしと、国が義務付けたなら、実用成果はどうであれ、どんな案が寄せられるでしょう。とても興味があります。納税と投票ばかりでなく、そうしたことも、大人としての義務のように思えます。