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『記憶の澱』中野與一

……そんなことを知る由もなく、姉は帰宅して父に拾った財布を見せた。父は騒動のことを耳にしていたので、びっくり仰天してその財布を持ち、小西屋へと向かった。そして娘が登校中に財布を拾って持ち帰った経緯を伝えて詫びると、財布を渡して中身を確認してもらった。

 しかしそれで一件落着とはいかなかった。部落の人や学校の先生までもが、父が財布を拾って隠していたが、あまり騒ぎが大きくなったので隠しきれず、娘のせいにした話をでっち上げたというのである。警察沙汰にもなって、我が家は大混乱となった。

 そうすると今度は、近所の人達が動きだした。「正直者の春さんに限ってそんなことは絶対にない」と、大地主である山中の旦那に話を持ち込んだ。山中の旦那は人格者で人望もあり、村人から信頼されていた。父のことも信用してくれている人だったので、それでは直接娘に話を聞こう、ということになった。結局、娘蝶の話は真実であると結論され、ようやく決着を見たのである。……『記憶の澱』(中野與一、私家版)より抜粋

 

【コメント】ここに書かれたことは、著者が生まれる前のことで、親兄弟から聞かされた話であるらしい。その著者は私の実父であり、つまり「正直者の春さん」は私の祖父であります。父はサラリーマンを定年までつとめ、その後はカメラをいじりだしましたが、80歳となったころから文章に切り換えたのでした。以来、原稿を書きためては印刷所の営業マンに相談しながら、ここ数年のあいだに薄い冊子を数冊ばかり書き上げたようです。わが父ながら、頼もしいかぎりです。