エッセ作品のご紹介
エッセとは実際のところ、どんな文章?
最初はきっと、そう思われることでしょう。なので、まずは作品例をご覧ください。
以下3例の字数はまちまちです。基本として1,600字程度を想定してほしいのですが、厳格にこだわる必要はありません。
またエッセは、1篇ごとに完結をめざします。それゆえ文章のタイトルと締め括り(文末)にも、気を配りましょう。また3例ともヨコ組みですが、冊子とするときは通常タテ組みとします。
汽車走る
私が4歳だったころ、一家4人は裏町のまことに小さな家で暮らしていた。ときおり近くの公園に紙芝居屋が立つこともあった時代だ。
父は、勤める製鉄会社まで家から自転車で通っていた。
まだテレビのない時代で、夕食後、家族はラジオに耳を傾けながら、それぞれの時間を過ごした。電球の明かりとラジオの声の下、私は毎晩のようにチラシやカレンダーの裏にクレヨンで絵を描いた。それはいつも、線路を走る汽車の絵だった。
あまりに熱中して、母が包んでくれた棒状の駄菓子を口に入れるつもりで何度もクレヨンをかじっては、母に口をすすいでもらった。
ところで私の幼い頭は、大いに悩んでいた。
汽車は真横から見ての姿を描く。つまり蒸気機関車に列車がつながり、列車の窓がいくつも横に並ぶ。線路はどう描くかというと、2本の水平線を引き、枕木となる垂直線をチョンチョン、チョンとまるで事務的に並べる。
けどそうすると、どうも汽車が走りにくい。汽車は横から見ているのに、線路は真上から見て描いているからだ。その矛盾(もちろんそんな言葉は知らないが)が、悩みの種だった。
ある晩、なにかの弾みだったのか描き方を変えてみた。2本の平行線の間隔を狭くして、枕木のチョンチョンを斜めに並べた。
すると、真上から見下ろす線路ではなくなって、汽車が走り出した。
私はそのことをまず母に伝え、少し喜んだ母が父に伝えたが、父は上の空といった反応だった。けど父の反応にがっかりしなかったのは、沸騰した私の喜びのほうが、はるかに熱かったからだろう。
その後、4歳男児の情熱はマンガ本の赤胴鈴之助へ、5歳になるとテレビの月光仮面へと、蝶が花を渡るように移っていった。
そして、65年が過ぎた。
ずいぶんと小さくはなったが、私の口の中には融けてなくなることのないアメ玉がまだあって、ときどき思い出しては、口の中で転がしたりしている。
(41字×26行=1,066字)
中2の夏
私の家からだと、少年が漕ぐ自転車で30分もあれば、海にたどり着いた。
中学2年の夏休みを前に学期末テストを終えた日の昼下がり、友人と連れ立って3人で自転車を漕ぎ、目的地に着いた。そこは漁師町の地元の子しか来ないような岩肌の立つ入江の一角で、永年の波でうがたれた岩の大きな窪みに、ゆっくりと呼吸するかのように海水が出入りを繰り返していた。
その自然のプールに、プラモデルの潜水艦を進水させるその時を待ちこがれて、大げさにいえば悶々とした試験勉強をくぐり抜けてきたのだった。
私たちはひとしきり潜水艦で遊ぶと、透明で毒のないクラゲをぶつけあって騒いだ。そのときの記憶は、海面にキラキラと反射する陽の光のようにまぶしく、そして今も鮮明である。
2週間ほどして、母が亡くなった。胸を患って長く入院を続け、そして病院で死んだのだった。
夏休みのさなか、葬式も終えたが出かける用事もなく家にいたときのことだ。玄関で名を呼ぶ声がした。出てみると、戸口に数人の学校仲間が立っていた。ひとりは海に連れ立った友人で、あとの男女も小学校からの顔なじみだがしばらく交遊のない面々だった。
「プールへ行かへん?」と友人がいった。「うん」と応えて、私は身支度をして、玄関の鍵を締めた。
私はなぜ彼らが来てくれたのかわかっていたし、私がわかっていることをみなも気づいていただろうと思う。けど、プールへと歩く途中、私たちは不自然なほどに無口だった。もちろん、誰も私の母の死を持ち出そうとはしなかった。
水着になってプール遊びをする間も、その暗黙の了解は続いて、私は普通にはしゃぐことに懸命だった。「亡くなったこと知らんの?」「知ってるやろ」 そんな女友達のささやきを背中で聞いた。
やがてまた服を着て、プール前でわかれるとき、口を開いたのは女子だった。年齢にかかわらず、男は肝腎なときに照れがまじって、役に立たない生き物なのかもしれない。
「吉村くん、お母さん亡くなったんやろ?」
「うん」
「元気出してね」
「うん」
よくは覚えていないが、そんな簡単なやりとりだった。もちろん、それで十分だった。
この年の夏休みの記憶は、なぜか曖昧で、むしろ欠落しているとさえいえる。心理学の本のどこかに、人の心の機能は苦難のできごとを記憶から排除する、といったことを読んだ気がするが、そういった機能が働いたのかもしれない。
潜水艦遊びの記憶は鮮明であるのに、プール遊びの記憶は厚い磨りガラスの向こうの景色のようだ。ただ、磨りガラスの向こうで私を呼んだ友人たちの姿は、すべての夏の中に遍在して、今でも私は、夏のふとした瞬間に懐かしい声を聞くことがある。
(41字×36行=1,476字)
南部君の思い出
大学生のとき、中古で買った90㏄のオートバイで京都から山形をめざした。季節は晩春だったように思う。その夜は、どこだったかもう忘れたがJR線の無人駅のベンチで寝た。次の日も走りづめで、夕方になってようやく目的地に着いた。
オートバイを降りたのは、当時、暗黒舞踏派として名を馳せた舞踏団の本拠で、彼らが伽藍(がらん)と呼ぶところの、木造の大きな建物の前だった。その前年、数人の仲間とそこでの柿(こけら)落としに訪れていたのでいわば再訪ではあったが、前もっての連絡も許可もないままの訪問だった。
剃り上げた頭と裸体に白粉をまぶした団員たちが、その日も激しく練習しているかと期待したが、そこには誰もいなかった。
いやじつは1人だけいて、みんなは遠くにある道場の手伝いにいったのだと、その留守番の若い男はいった。剃髪のその団員は、南部貢(なんぶみつぐ)君といって、私より1、2歳若かったかもしれない。
南部君は独り残された淋しさもあってか突然訪れた私を招き入れて、麦茶と駄菓子を出してくれた。だだっ広い屋内を一瞥するだけで、質素な生活の様子が見てとれた。思い返すに、たぶん彼は1円も現金を持たされていなかったのではないか。それでも愛嬌のある男で、私の路銀に期待してか「近くに屋台のおでん屋がある」といった。
よし行こうと、わたしは南部君をオートバイの後ろに乗せた。
屋台に膝をくっつけるように腰掛け、南部君は裸電球が照らすオヤジの顔に軽く挨拶を投げたが、返事はなかった。私のことを京都から来たなどと紹介して、「お酒、アツ燗で」と南部君は注文した。
熱い酒がコップにつがれ、私の前だけに置かれた。「あれ?」なんて、照れと戸惑いのまじる声で南部君はいって、事態を飲み込んだ私は「僕が払いますから」とオヤジにいった。
おそらく団員全員でもって、ツケをため込んでいるのだろう。ようやくコップが出てきて、二人しておでんをつついた。屋台から帰ると、町民ならタダで使えるという風呂場に案内してくれ、薄暗く人のいない湯に、二人で浸かった。
なぜそんな独り旅をしたのか、話すと長くなる。
暗黒舞踏は土方巽が創始した踊りの一流派だが、かなり異質かつ異形のものだった。剃り上げた剃髪の男たちが、フンドシ一丁だけを身にまとい、所作の美を求めているとは思えない動きで突っ立ったりしゃがんだり、はたまたイモムシのようなあがきを見せる。
私は和歌山市内の高校を卒業し、二浪の末に京都市立芸術大学美術学部に入学した。芸大生だった私は、創造とは何かをひたすら探求し、犬も食わないだろう答えを探し求めていた。そんなとき、観衆の前でイモムシのあがきをして見せる暗黒舞踏に、答えの一つを見つけた思いがした。人は芸術の名の下なら、ここまで品性をかなぐり捨てられるのか。じつはそうした驚きにこそ、気持ちを揺さぶられたのかもしれない。あの人たちの舞台の外での顔を見たい、それが独り旅の目的だった。
泊めてもらった翌朝、南部君は「町においしいパン屋がある」といった。またオートバイで出かけ、パンを買った。パン屋を出ると「焼きそばを作るのが得意」というから、小さなスーパーで麺と少量の野菜を買った。南部君が肉も買いたがったが、私は懐具合を気にして買うのをケチった。
鳥海山を遠くに眺めてから帰りつくと、彼は肉のない焼きそばを作り始めた。やがて台所から湯気の立つ皿がうやうやしく運ばれてきた。見るとそれは、ソースの中を麺と野菜が泳ぐような仕上がりだったが、それが彼の「得意」料理なのだった。
昼前、彼に見送られて私たちは別れた。その夜は福井のお寺に泊めてもらい、翌日京都に帰り着いた。
その翌年、京大西部講堂で彼の属する舞踏団の公演があった。
公演後に講堂裏で簡素ながらバーベキューの宴が催された。私は南部君と再会し、そこでも彼は愛想よくビールをついでくれた。
暗黒舞踏という、数年で流行の前線から消えていったその麻疹(はしか)熱のさなかで、私たちは出会った。病が去ったあとの身に残る余韻のことなど、他人が興味をもつはずもない。南部君の思い出もきっとそのようなものなんだと、私は思うことにしている。
(41字×50行=2,050字)